ぶっきょうを生活に

ブッダ?仏教?宗派?なんか堅苦しく感じる方が沢山いらっしゃる事かと思います。

 

・仏教は基本的に正解を出さない

正しい、間違いという概念は仏教に基本的にはない。この世の中に正解というものはない。仏教は個性を大事にしているので。「わたしの存在だけの正解を自分で考えていく、模索していく」、これが仏道だと思います。仏教徒とは、お釈迦様とそのお弟子さんの考え方が好き(フラットに言えばファン)なので、自分の正解を導き出すためにこれらの人の残した言葉を自分にあてはめて生活を送ります。

世の中に正解はない事は認めつつ、仏教の中で(仏教徒の中で)の良い事、良くない事はあります。

お釈迦様の言葉に※「自分のためになることをするのは極めて難しい」という言葉があります。私たちは日々、生活していて自分にとって都合のいいことは受け入れやすいが、都合の悪いことは受け入れにくいですね。自分にとって都合の悪い価値観を理解していくと、自己の良い成長につながると考えています。

 

※(法句経12-163)

法句経(ダンマパダ)は私たち浄土真宗ではあまり馴染みのないお経ですが個人的に魅力を感じ、阿弥陀如来、念仏といった浄土真宗の御教え考えやすいのでよく使っています。

仏教はつかみどころがない教え、深い、と言われることが多いですが、一般的に考える考え方のそのもう一歩先まで考えてみましょう

例)

お客さん:このcoffeeは美味しいですね

私:そう思われましたか 嬉しいです。味覚は個人の感じ方ですが、私もおいしいと感じます。

私:しかし、何故私たちはこのcoffeeを美味しいと感じるのでしょう?

お客さん:煎りたて、挽きたて、自家焙煎はやっぱり美味しいですよね。

私:そうですね。私も同じように感じます。

  ですが、高い山の上で飲むインスタントコーヒーもまた私にとっては格別に感じるもので、更に目隠しをして飲むと意外にどれがどれだか解らなくなる人や環境も多いです。例えば目隠しされた場所にドリアンなど強い臭いのするものがあるとか。

 

お客さん:えっ!自家焙煎してる人でも解らなくなるんですか?

私:「解ります!」って言った方が皆さん喜ばれるのでしょうが解らない、意外と味覚ってそんなもんです。芸能人の人がテレビで目隠しして間違えてるのみませんか?そんなものです。

 

どうあっても味わう本人が美味しいと感じればそれで良いと思います。だから仏教では自己を知りたい。私も気が付いてない自分の「美味しい」って感じるものって何なのか。

人種、男女、年齢様々な違いがある中での私が「美味しい」と感じる部分って何なのか・・・

 

私の場合昔は・・・味覚より 自分以外の人と「美味しいね」って言い合って、「良かった。分かり合える人がここにも居た。味なんてどうでもいい」が一番大切な「おいしさ」でした。

 

それも大事なおいしさ、でも行き過ぎるとインスタントコーヒーを馬鹿にしたり、そのコーヒーを飲んでいる人を馬鹿にしだしたり。これじゃ「みんな解ってない!本当の味覚を解ってない!」ってイライラする人間になってしまって生活が楽しくなくなるんですよね。

 

自信をもって、私はこういう珈琲が好き!人がなんて言ってもこういう珈琲が好き!って言えるようになると前より気楽になりました。

お店に立つ坊さんがすること

以下の事をしてほしく無い方は当施設は楽しむ事が難かしいと思います。

※(お寺のブッダかふぇなので、坊さんはお客さんの会話に入ります。)

・仏教を知りたい人の理解を手伝うこと。

・もう一歩さきの考えを会話のなかで掘り下げていくこと。

・話してみえる内容を聞いて、違う見方をアプローチすること。

 

 

お坊さんは嫌なこと(良い事)があったという人がいても、きっとこの人は「うんうん」と相づちをうってあげれば嬉しいだろうなぁ。と思いつつも、別の見かたをしようと考えているので「うんうん、そうですね」では終わりません。

一見酷いように思われますが、目先の一瞬で終わる安らぎではなく、できるだけ根本的に近い苦しみを解決したいからです。

 

人は、腹立たしいことが起こったとき、むかついて人に話してスッキリして、また同じような事にむかついて、こんな生活の繰り返しになってしまう事が多いのです。

 

こんな繰り返しを軽減できないものかと、同じような事が起きても、次からはむかつかない人にどうしたら近づけるだろうか。と考えています。

 

「うんうん」と言われるだけではなく、別の考え方を、別の見かたで受け入れてみようと思える人にご利用いただければ幸いです。

 

違う見方をアプローチする。例)

お客さん:友達に裏切られました

私:どんな風にですか?

お客さん:これこれこんな風に

 

私:お友達は何故そんな行動に出たのでしょうか?

私がその行動をとるとしたら、原因や可能性はコレコレこんな事が考えられます。裏切った側の心の苦しみってどんなもんだったんでしょうね。本人は裏切っているつもりは無いと言うことって考えられませんか。

私たちとのそのお友達の価値観の違いってどんな所に表れているんでしょうか。

  

裏切られる前に回避するには私たちは次からどうしたらよいでしょうか

 

 

ブッダの言葉だと「他人の過失を見る事をしないで 自分がその時何をして、また何をしなかったのかを考えてみましょう」とあるんです。(法句経4-50)

 

どう考えても酷い人を、とことんまで責め立てたい気持ちって誰にでもあり、言い換えれば誰もが当たり前にする事ですよね。

ここは一つ 自分に目を向けて少しでも避けれる方法を考えてみませんか。

ここまで読んでくれたあなたに。

ただ今日だけは「うんうん」って、誰かに聞いて欲しい。誰でも良いから「だからダメなんだ!しっかりしろ!」そんな言葉が欲しいだけの時ってありますよね。

 

でも私の知っている仏教はそんなことはあまりしないんです・・・

もし、今日はただ聞いて欲しい!社会の正論で叱咤激励してほしい!と思って来られるのであれば、初めに言って頂けれは出来る範囲でお答えします。

 

そっとしておいて・・・っていうのは できません(´・ω・`)